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やはり比較と優劣の絡み方に、ポイントの一つがありそうですね。
私から見ると、最初からずっと大野さんの方が「優劣」に引き寄せて考えすぎているように見えてしまうんです。
こちらからは「優劣ではない」と何度も言って、そちらからは「それはもうわかった」と何度も言われましたけどね。
わかったように見えないんです。
>単純< >複雑
> で分けるという事自体が、優劣をつけていることが分からないあまくささんではないですよね?
いや、わかりません。
単純と複雑がどうして優劣なのでしょうか?
では、大野さんのお考えでは単純と複雑のどちらが優で、どちらが劣なのですか?
ゲームのルールが、プレイヤーの戦略が複雑である方が効率が悪くなるように設定されていれば、「単純」の方が優ということになりますよね?
そして、戦略が複雑か単純かによってゲーム性があまり左右されない設定であれば、単純・複雑は優劣とは無関係ということになります。
>ですが、比較によって『どっちの方が、より○○である』と言うのであれば、どんな比較方式であれ、連続性が無ければ成り立ちませんよ。
それは、
・連続性のないことは比較できない。
ではなく、
・連続性のないことには優劣はつけられない。
と言っているに過ぎません。
比較は普通にできると思いますよ。
>絵に描いた餅と現実の自動車の大きさを比較する時、大体の人は『餅が描かれた紙のサイズ』か『車をそのまま絵にするとしたら、どのようなサイズになるか』を参照して大きさを比較するでしょう。
餅と自動車のどっちがカッコイイ? という比較もあるじゃないですか(笑
また何らかの理由で大きさを比較する必要があるなら、絵に描いた餅にスケールをつければよいだけのことです。造作もありません。
そして!
餅よりも自動車の方が大きいという結果が出たとして、自動車は餅よりも優だと考える人がいますか?
いないでしょう?
しかし、餅と自動車の大きさを比較すること自体はできるじゃないですか?
それができないと思うのは、比較した結果を何らかの「判定」に結びつけなければならないと思い込んでいるからではないでしょうか?
しかし、比較というのは、そんなことだけではありません。
比べてみれば、「自動車の方が大きいね」「餅は白いけど、この自動車は赤いね」「だけど、白い自動車だってあるんだから、赤いことは別に自動車一般の特徴とは言えないよね」「でも、僕は赤い方が綺麗だから好きだな」
とか、いろいろあるじゃない。
そんな比較はできても意味がないと仰るかもしれませんが、
1)比較する前に意味があるかどうか決めてしまうのはどうか?
2)実際問題として餅と自動車はかけ離れすぎているとは思うけど、アリと人間については、これまでの論点としては「社会を作る機能」という共通のアングルはあるわけです。
その部分で、現実的に考えても十分有意な比較は可能だと思います。
でですね。そういう比較検討をする場合に、人間基準に偏った思考はできるだけ排除した方がよいのは当然です。
ただし、偏りがちだから比較はできないということではなく、偏り(先入観)が少ない方がより有意義な考察を引き出しやすいと期待できるからです。
ですから偏りはゼロにしなければならないということではなく、なるべく偏らないようにしようと心がけるだけでもかなり有効だと考えられます。
* * *
それと。
私は別に論理性を放棄はしていないつもりですよ。
ただ私は「論理性」よりも「合理性」を上位に置いて考えています。
ある課題に取り組むときに、論理性を捨てた方が解決しやすい(直感を重視するとか。あるいは数量を把握するために計算式を立てるよりも、単純に1、2、3……と数えた方がよほど早いというようなケースもあります)と判断できる場合に躊躇なく論理を捨てるのは、合理的だと言えます。
* * *
書き込みの回数に制限をつけるのはOKです。
まあ、3回とか限るのも窮屈で面倒くさいので、概ねそのくらいで終わらせるように意識します。
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スレ主 大野知人 投稿日時: : 0
>単純と複雑がどうして優劣なのでしょうか?
では、大野さんのお考えでは単純と複雑のどちらが優で、どちらが劣なのですか?
に関しては
> いえ、もちろん厳密な定義の『優劣』ではないでしょう。
ですが、比較によって『どっちの方が、より○○である』と言うのであれば、どんな比較方式であれ、連続性が無ければ成り立ちませんよ。
と書きました。
勿論『厳密な意味での優劣』ではなく、上下、でも大小、でもいいので『幅のある物』と言う意味です。
カッコいい、という比較だってそうですよ。
比較の基準は各々が定めればいい事ですが、
カッコいい< >カッコよくない
の連続性があって、その中に車と絵に描いた餅を当て嵌めた時、『カッコいい』により近い方がカッコいいのです。
絵に描いた餅にスケールを付けるのは構いません。『長さ』という標準は、どちらかに寄せずに比較を行うために人類が生み出した知恵です。
でも、『社会の複雑さ』を表す基準値はまだ存在しないでしょう。
判定が出ない比較に意味なんてありませんよ。
例え『AはBより尖っている』でも、判定は判定です。
いえ、厳密には『判定が出来ない』という結論を出す事には意味が有ります。
ですが、少なくとも今回あまくささんが立てた比較にあっては『判定が出来ない』という結論をあまくささんは出してないですよね。
>比べてみれば、「自動車の方が大きいね」「餅は白いけど、この自動車は赤いね」「だけど、白い自動車だってあるんだから、赤いことは別に自動車一般の特徴とは言えないよね」「でも、僕は赤い方が綺麗だから好きだな」
とか、いろいろあるじゃない。
あまくささんが挙げたものは全部『判別』ですよ。言い換えれば、
『自動車の方が持ちより大きい』『車は餅よりも赤い(餅はそもそも白いけれども)』『餅は車より赤い(車はそもそも赤いけれども)』『僕は白い物より赤い物が好きだ』
です。
もう少し言うなら、『他の車と比較すると、赤くない車も数多く存在する』よって『赤い事は車全体の特徴ではない』と言うのは判別から発展した結果に過ぎない。
この比較には、意味が有ります。
一方で、俺がずっと言っている事ではあるのですが、『アリの社会』と『人間の社会』では在り方が隔絶しすぎていて、そもそも『社会を作っている』という事は共通点になりえない、と言う話です。
勿論、『在り方が隔絶している』と言う比較はできます。
アリっぽい社会< >人間っぽい社会
とすればね。
一方で、あまくささんが挙げられていたような『複雑さ』などの観点においては比較しえないと思う訳です。
車と餅の話で言えば、確かに『大きさ』と言う評価基準では統一できますが、車に対して『美味しいかどうか』と言う評価基準をするのは不適当ですし、餅に対して摂取カロリーを標準に『燃費』を語れば車における『燃費』とは意味合いが変わってしまいます。
まあ、『ゴジラ』とかそういう、車を食べそうな生き物を出してもらっても良いですが、そこまで行ったらファンタジーです。
俺は、『社会の複雑さ』と言う定規を当て嵌めるには、『人間の社会』と『アリの社会』を均等に比較しうるのは難しいと思います。
また、『なるべく偏らない様にしよう』と言うのは個人差が出てくるので、有効性が無いと思います。まあ、これも『個人的には』の話なのですが。
あまくささんが論理性を放棄していないのは分かっています。
ただし、この議論自体は『論理的におかしくね』から始まる訳なので、『別に論理的じゃなくても、合理的であればいいと思うよ』と言ってしまったら『そもそも、論理的じゃない場合の話はしてないねん』となってしまうし、
俺は根本的に『面倒くさいツッコミだけど』と言っている通り、『そのやり方が合理的である』事も『合理的に物事を進める』事にも文句は言っていないですよ。
ただし、この余談にあっては『論理的である』事に意味があるんです。
だからここまで丁寧にお互いの認識をすり合わせて来たんじゃないんですか?
あーと、書き込みの件は『書き込む件数の制限』じゃあなくってですね。
『他の質問者さんが、三件新しい質問のスレ版を立てたら』です。
あくまで、問題なのは他の質問者さんへの迷惑ですからね。他に質問が無いのであれば、根本的に俺らが遠慮する理由もないでしょう。
そっちの方が、合理的じゃないですか?
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