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>単純と複雑がどうして優劣なのでしょうか?
では、大野さんのお考えでは単純と複雑のどちらが優で、どちらが劣なのですか?
に関しては
> いえ、もちろん厳密な定義の『優劣』ではないでしょう。
ですが、比較によって『どっちの方が、より○○である』と言うのであれば、どんな比較方式であれ、連続性が無ければ成り立ちませんよ。
と書きました。
勿論『厳密な意味での優劣』ではなく、上下、でも大小、でもいいので『幅のある物』と言う意味です。
カッコいい、という比較だってそうですよ。
比較の基準は各々が定めればいい事ですが、
カッコいい< >カッコよくない
の連続性があって、その中に車と絵に描いた餅を当て嵌めた時、『カッコいい』により近い方がカッコいいのです。
絵に描いた餅にスケールを付けるのは構いません。『長さ』という標準は、どちらかに寄せずに比較を行うために人類が生み出した知恵です。
でも、『社会の複雑さ』を表す基準値はまだ存在しないでしょう。
判定が出ない比較に意味なんてありませんよ。
例え『AはBより尖っている』でも、判定は判定です。
いえ、厳密には『判定が出来ない』という結論を出す事には意味が有ります。
ですが、少なくとも今回あまくささんが立てた比較にあっては『判定が出来ない』という結論をあまくささんは出してないですよね。
>比べてみれば、「自動車の方が大きいね」「餅は白いけど、この自動車は赤いね」「だけど、白い自動車だってあるんだから、赤いことは別に自動車一般の特徴とは言えないよね」「でも、僕は赤い方が綺麗だから好きだな」
とか、いろいろあるじゃない。
あまくささんが挙げたものは全部『判別』ですよ。言い換えれば、
『自動車の方が持ちより大きい』『車は餅よりも赤い(餅はそもそも白いけれども)』『餅は車より赤い(車はそもそも赤いけれども)』『僕は白い物より赤い物が好きだ』
です。
もう少し言うなら、『他の車と比較すると、赤くない車も数多く存在する』よって『赤い事は車全体の特徴ではない』と言うのは判別から発展した結果に過ぎない。
この比較には、意味が有ります。
一方で、俺がずっと言っている事ではあるのですが、『アリの社会』と『人間の社会』では在り方が隔絶しすぎていて、そもそも『社会を作っている』という事は共通点になりえない、と言う話です。
勿論、『在り方が隔絶している』と言う比較はできます。
アリっぽい社会< >人間っぽい社会
とすればね。
一方で、あまくささんが挙げられていたような『複雑さ』などの観点においては比較しえないと思う訳です。
車と餅の話で言えば、確かに『大きさ』と言う評価基準では統一できますが、車に対して『美味しいかどうか』と言う評価基準をするのは不適当ですし、餅に対して摂取カロリーを標準に『燃費』を語れば車における『燃費』とは意味合いが変わってしまいます。
まあ、『ゴジラ』とかそういう、車を食べそうな生き物を出してもらっても良いですが、そこまで行ったらファンタジーです。
俺は、『社会の複雑さ』と言う定規を当て嵌めるには、『人間の社会』と『アリの社会』を均等に比較しうるのは難しいと思います。
また、『なるべく偏らない様にしよう』と言うのは個人差が出てくるので、有効性が無いと思います。まあ、これも『個人的には』の話なのですが。
あまくささんが論理性を放棄していないのは分かっています。
ただし、この議論自体は『論理的におかしくね』から始まる訳なので、『別に論理的じゃなくても、合理的であればいいと思うよ』と言ってしまったら『そもそも、論理的じゃない場合の話はしてないねん』となってしまうし、
俺は根本的に『面倒くさいツッコミだけど』と言っている通り、『そのやり方が合理的である』事も『合理的に物事を進める』事にも文句は言っていないですよ。
ただし、この余談にあっては『論理的である』事に意味があるんです。
だからここまで丁寧にお互いの認識をすり合わせて来たんじゃないんですか?
あーと、書き込みの件は『書き込む件数の制限』じゃあなくってですね。
『他の質問者さんが、三件新しい質問のスレ版を立てたら』です。
あくまで、問題なのは他の質問者さんへの迷惑ですからね。他に質問が無いのであれば、根本的に俺らが遠慮する理由もないでしょう。
そっちの方が、合理的じゃないですか?
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投稿者 あまくさ 投稿日時: : 0
まず、こちらは社会の複雑さという話はしていません。
人間の脳が複雑で、その複雑な脳で社会を作っているが、その複雑さが少しバグっているのであまりうまく行っていない。そういう話をしています。
じゃあ、うまく行っていない人間の社会をどうすればいいか、と。
それについては社会学・経済学、または政治の方からアプローチするのが本道でしょうが、それで国内を多少改善できたとしても、世界には民族間・宗教間の深刻な対立なども存在します。
集団と集団の対立がなぜ起こるかを分析するに当たり、動物行動学は参考になるんじゃないかと考える潮流が20世紀の後半くらいに勃興したんじゃないかと。
私はそういう思想の影響を若い頃からけっこう受けているので、人間と動物を比較するのは良くないことだという見解が、本当にガチでわからないんです。
動物について研究することは、人間社会について考察する上でかなり参考になると思います。
それは、人間も動物の一種だと考えることでもあるんですね。
このスレではここまで、人間と動物にはある局面で連続性がないという共通理解にこぎ着けるのに苦労したので、卓袱台返しと受け取られかねないことを言い出すのを躊躇ったのですが、人間と動物はある局面では連続性がほとんどないにしても、別の局面では連続性があると思いますよ。
それは、人間も動物の一種だという連続性です。
そして、同じ動物という連続性を持ちながら、ある局面では連続性がほぼ無いと言っていいほど異なる振る舞いをしているのはいったいなぜなのか?
それを考えたとき、やはり人間と動物を比較して検討してみる他にないと思うんですよ。
それによって見えてくることはあると、私は思います。
それがどうしてよくないことなのかなあ?
と思ってしまい、かなり当惑しています。
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