性善説ではありませんの返信の返信の返信
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性善説ではありませんの返信の返信(元記事)
ん?
いや、そんなことは言っていませんが。
>『人間社会の在り方』そのものに動物的本能が作用していないと言い切るのは、中々難しいのです。
これは、私の前の書き込みの、
◎さらに俯瞰的な視点から考えると、一見本能を逸脱したように見える人間の「生存戦略」も、人間にとっての「自然」なのだとも言えます。
は、同じことを述べたつもりですが。
>人間の解剖学ほどではないにせよ、彼らは自分より大きな獲物を運搬する時、噛み切ってパーツごとに分けて運搬します。そういった際に関節を狙って千切りに行くところなどは、決して『本能』の一言で説明しきれるものではないでしょう。
仰っていることの方向が、途中から逆になっていないでしょうか?
・人間の行動が本能に根ざしていないとは言い切れない。
・動物の行動は本能の一言で説明しきれない。
これじゃあ、右をさらに右から見たら左、左をさらに左から見たら右と言っているだけじゃないかと思いますが。
* * *
猿を使った実験。
ある部屋の天井にバナナをつるします。猿が必死に飛び上がっても届かない高さです。
その部屋に棒を1本置いておきます。
すると猿を、その棒を使ってバナナを叩き落とすということを、わりと簡単に思いつくそうです。
ところが。
バナナと棒を別の部屋に置いておくんです。
猿はA室で棒を見てから、B室で吊されたバナナを見ます。しかし、同時に見えない棒とバナナを結びて考えることはできないらしい、という実験結果が出たとのこと。
もう一つ。
動物行動学のわりと有名な知見だったと思いますが、2匹の狼が戦うとき、一方が降伏の意思を示すと他方はすぐに攻撃をやめるらしいです。
人間だったら、一旦降伏しておいて、後で復讐するという行動を取り得ます。そして相手もそれが予想できるから、完全に息の根を止めるまで徹底的に攻撃するという行動を取ってしまうことが少なくありません。
直感的に結びつかない二つの事象を、結びつける思考。
未来に起こることを予測し、様々な結果や影響を洞察する思考。
この「洞察」という思考は、(ヒト以外の)動物には決定的にありませんよね。
この部分において、人間と動物とではそうとう隔絶していると思われます。
先に本能云々と書いたのは、ここは詳細にエビデンスを示して論じることができる場ではないので、話を分かりやすくしようとしただけ。論点はそこではないのです。
* * *
>まず第一に『性悪説』という理屈を考えた人にとっての『悪人』の定義を考えるべきだろう、と俺は思います。
私は悪という概念自体が、言ってしまえば大いなる誤謬だと考えているんです。
物理法則の中に善とか悪とかいう要素はありませんよね? しかし、社会の中には善悪という要素が抜き差しがたく存在しています。
それは別に矛盾じゃないと考えているんですよ。
人間の根源が本能に根ざしていようがいまいが、他の動物にも思考の萌芽があろうがなかろうが、人間と他の動物では複雑さのレベルが違いすぎるんです。
そういう複雑な社会の中で、人間は独り立ちするまでに20年以上かかりますから、その期間に蓄積する経験値に余分な夾雑物がまざりすぎ、どうしても歪んでしまうんです。
そして、社会がなければ人間は生きていけない以上、歪みが一線を越えて社会のバランスを破壊するところまで行ってしまったならば、それは「悪」と定義することが妥当ではあります。
しかし、本質的には、例えば殺人が悪である理由を科学的には証明し得ないですよね?
まあ、貨幣経済の原理みたいなもので。
お金だけいくら持っていても、それで食物を買えなかったら誰だってすぐに死にます。だから貨幣は実体的な価値を持たないまやかしなのですが、そのまやかしを信じることで現代の市場社会は維持されています。この信用が崩れたらあっというまに崩壊するので、信じざるを得ないのです。
信じざるを得ないから信じているだけだと気がついている人もいますが、多くの人はたぶん本気で信じているように見受けられます。だから社会は成り立っているという。
そんなもんです。
性善説ではありませんの返信の返信の返信
スレ主 大野知人 投稿日時: : 0
・人間の行動が本能に根ざしていないとは言い切れない。
・動物の行動は本能の一言で説明しきれない。
と言うのを連続して書いたのは、どうもあまくささんの文章の中に『人間は理性的な生き物、動物は本能的な生き物』という感性があるように見えたからです。
間違ってたならすみません。
ただ、俺が言いたかったのは『人間であれ、人間以外の動物であれ、理性と本能の区別はとても難しい』と言う話と、その事について(俺たちが人間であるのは確かにそうだけれど)人間だけを特段抜き出して議論できるものではないと思う。と言う話です。
これが、最初から人間に限って善悪ないし理性と本能の話をされていたのであれば別だったのですが、他の動物が混ざってきた辺りで、解釈のズレが起こったみたいですね。
言いたいことは分かるんだけど……。
そういう意味で言えば、あまくささんが『悪』を誤謬だと思っているように、俺は『科学』とか『物理法則』を誤謬だと思っています。
要するに、頭一つ抜けて正しいような顔をしているけれど、『科学』っていうのも所詮は人間から見た物差しに過ぎない訳で。
そういう意味で、わざわざ善・悪或いはそれに相当するナニカの話に、科学が出てきたことが受け入れられなかったと言いますか。
まあ、行きつく先としてはあまくささんと一緒で『科学法則』と『善悪』という複数の価値基準は、どちらに影響されることなく、矛盾なく存在しているだろう。と思っているんですが。
人間と他の動物とでは複雑さのレベルが違う、ってのは些か飛躍しすぎてるように思います。
どちらも違う形に複雑なだけで、『人間だけが一方的に複雑だ』って考えは傲慢じゃないでしょうか。
殺人が悪である理由については、行動学的に『同族殺しは問題だ~』とか『生物が繁栄を目的に生息していることを考えれば~』とか難癖付けることは出来ますが、まあ、証明不可能です。
ただし、逆説的に他の科学的立証に関しても『人間の都合』を抜きにすれば、都合のいい屁理屈で成り立っている物はごまんとあります。
善と悪の定義をするのは、そうすると人間にとって都合が良いからだと、俺はそう考えてますよ。
要するに、自分以外の誰かを下げる事に意味があるんです。或いは、誰かを『善である』と持ち上げる事に意味があるんです。皆、自分に都合のいい、『それっぽい』差別化がしたいんです。
どちらにせよ、『善と悪に分ける』という行為自体に意味があるので会って、『善と悪』そのものには意味はありません。
『善と悪』ってのは、要はそういう名前の宗教なんです。『キリスト教』とか、『白人優性主義』とか、『仏教』とか、『在日は出てけ』とか、『ホロコースト』とかと一緒です。
信じざるを得ないから信じている人は少数です。大体の人は、信じたいから信じてるんです。そして、『信じたい』と思っていることに気付いてないだけで。
『そんなもんです』と仰るなら、それは人間に都合がいい『そんなもん』を作ったんです。
人類皆が、いかにも善人らしく、手と手を取り合って。
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