カタルシスの分散の返信
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カタルシスの分散(元記事)
こんにちは、大野です。
今回、ちょっと分かりにくいタイトルになってるんですが、大雑把に言えば「話の落としどころで迷っている」という感じです。
今俺が描いている(推敲中)作品は現代ファンタジーを舞台とした魔術探偵モノです。主人公は『嘘や多少の法律違反を厭わず、最終的に丸く収まれば真実にこだわる訳ではない』探偵を主人公にして、半分頭脳戦・半分アクションみたいなことをする作品を目指しています。
問題のラストシーン付近のプロットなんですが、『探偵が黒幕の陰謀に気付く』→『陰謀がなされる直前で探偵が妨害に入る』→『陰謀を阻止する』→『黒幕が降伏』→『後日談でエンディング』くらいの物を考えています。
まあ、探偵モノとしては王道なんですが。
主人公をおちゃらけた性格にしてしまったこと、作品そのものが『スタイリッシュな探偵』より『ちょっと気の抜ける探偵』を目指していることもあって、『格好良く陰謀を阻止してしまっていい物かなぁ……』と思っている部分が有ります。
そこで、『黒幕が降伏した後、しかし実は「陰謀を阻止するために使った仕掛け」が見せかけだけ作った偽物だった」と主人公がネタバラシするシーン』を入れようかと迷っています。主人公のキャラ的にはいかにもありそうな事なのですが、一方で作品のカタルシスとしてはよろしくないと思う部分もあります。
こういう、『最終決戦後の気の抜けるおふざけ』みたいなの、やっても良いと思いますか?
皆さんの意見を聞ければ幸いです。
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俺の作品を既に知ってる人へ。『具体的にはこういう事よ!』って奴。
『オカルト探偵(さぎし)、今日も騙る』という作品の話です。
物語終盤、新月の晩(旧暦一日)にとある儀式をしようとするラスボスの元へたどり着いた主人公の瓜坂は、『日本では神無月に入ると土地の神様がいなくなり、大地の魔力が大きくズレる』事を利用して(気付かせずに)、相手が儀式を行う時間を引き延ばして、『神無月に突入させることで、儀式が出来る条件を破る』用に持ち込み、陰謀を砕く。
という展開で書いています。
今回やろうとしていることとしては、この『神無月に入ると大地の魔力が大きくズレる』部分について、『実は全部嘘で、別の手段で『大きな魔力の気配』を生み出して、さも儀式が失敗するかのように思わせた』という二段オチのネタバレを入れようかと思っています。
具体的に言えば、最終決戦のいくらか前に『黒幕が主人公を始末するために仕向けた魔物』を主人公側が利用する形にしようかと考えています。クトゥルフのアイツですが、推敲の結果別の魔物に差し替えることになりました。
俺の作品をご存じの方も、そうでない方も。こぞって意見を頂けると幸いです。
カタルシスの分散の返信
投稿者 あまくさ 投稿日時: : 1
一応話をスレの論点に戻したところでバトンを拾ってくれた人がいたので、後はおまかせしようと思ったのですが(笑
なんか議論が深化しているようなので、もう一度バトンを拾ってみます。当たりガチャ認定してもらったのを喜んでいいのかどうか不明ですが、まあ、褒められたと思っておくことにします。
>幼稚園高学年のころ、今とは違い天才寄りだった俺は、『幽霊』という妖怪(じゃないという説もある)に対して凄い興味を持っていました。まあ要するに、『死ぬとどうなるのか』ですね。
私は小学二年生くらいの頃に、人間は死んだら完全に消滅し、天国も地獄もないんだと思っていました。だから幽霊・妖怪もまったく信じていなくて、現代人なら誰でも普通にそう考えていると何となく思っていたのですが、そうでもないのでしょうか?
私の場合、幼稚園~二年生くらいに祖父と祖母が毎年一人づつ亡くなっていた時期があり、葬式ばかりやっていたので人間が死ぬってどういうことなんだろうと考えたんですね。そんな時期に誰かオトナに聞かされたことに、覚えていませんが何かしら影響されたのかもしれません。そういう刷り込みが、以下、大野さんとも少し世界観が違ってくる原点になっているのかなと思ったりもしますが、まあ、よくわかりません。
で、『物理法則と自由意志のジレンマ』について。この場合の物理法則とは「決定論(広義に言えば因果律)」のことですよね? 一般的な物理法則と自由意志は別に抵触しないと思われますから。
『物理法則と自由意志のジレンマ』。それはおそらく以下のような思考かと思います。
世界は必然性と偶然性と作為性の三つによって成り立っています。しかし、ビッグバン以来すべての因果の連鎖を俯瞰する神の視点から見たら、偶然性も作為性も実は存在せず、すべては必然のはずだという考え方ね。
この考えはしかし、「そうなのかもしれない」としか言いようがなく、そうだと証明する方法はたぶんありません。
算数では「1+1=2」と教わりますがこれも実は絶対の正解ではなく、「+」という加算の計算法を厳密に定義してはじめて成立する「条件付きの正解」でしかないことはお分かりかと思います。
決定論も同じで、そもそも「論理」というやつは、ある条件を仮定した時にこの命題は真か偽かという思考でしかないんですよ。これは人間の脳の限界で、人間は論理的であろうとするかぎり上記のような思考の枠組みを逸脱することができないようにできています。
ちょっと根源的なお話。
人間をとりまく世界なるものの実相について、ショーペンハウアーが私なんかよりずっと上手い言葉で説明してくれている本があるので(『意志と表象としての世界』冒頭)、引用します。
(引用始め)
世界は私の表象である。このことは、生きて認識するあらゆる存在に妥当する真理である。
(中略)
人間が知っているのは太陽や地球そのものではなく、ただ太陽を見る目や地球に触れる手を知っているに過ぎない。
(中略)
すなわち、世界はそれとは別の、世界を表象するもの(世界を見渡している視点人物というような意味です。あまくさ注釈)、すなわち人間との関係性のうちに存在するということである。
(引用終わり)
平たく言えば、私たちの体験は、現実なのか脳の誤作動によって生み出された幻なのか区別がつかないということです。
とは言えデカルトのコギトじゃないですが、世界が幻想であるなら少なくとも幻想は存在していることになりますから、百歩譲ってそれが何であるのかは分からないとしても何かしらは実在していると言えます。
何かが存在している。
これが出発点です。
そして、その「存在する存在物」は我々の360度周囲を取り巻くように存在している。われわれはそう実感しており、それを我々は「世界」または「環境」と呼んでおり、すなわち人間は本質的に「世界内存在」であると言えます。
人間は「世界内存在」であり、動物も「世界内存在」ですが、人間と動物には決定的な違いがあります。それは、動物は主に本能によって世界とつながり、人間は(本能もあるとは言え)主に脳が作用する「思考」によって世界とつながっているということです。
人間は知覚というセンサーによって外界の情報を受け取り、その情報を脳が処理することによって「世界観」を生成しています。このプロセスを通して人間が外界に働きかけるために、「論理」という形式を脳が運用しているんです。
しかし人間の脳も一器官に過ぎませんからその情報処理能力には限界があり、よって人間の世界認識も論理的思考も、その限界を超えることはできないわけです。
論理なんて、たかだかその程度のものです。
で、やっと「因果律論」「決定論」にもどります。
それらは限界があり不完全な人間の論理思考による机上の空論にすぎず、真実でも何でもありません。
人間は動物と違って主に本能より思考によって世界にアプローチすると述べましたが、本能だって無いわけじゃありません。いわゆる「勘の良い人」の行動や判断が秀才の論理を凌駕することがあるのは、それが理由です。
なので、非論理的な「素朴な直感」を信頼してもいいんですよ。
決定論に対抗する「素朴な直感」としては、私はよく「暴漢に襲われたときの行動」を例にとっています。
暴漢に襲われて命の危険を感じたときの反応は、「逃げる」「抵抗する」「立ちすくんで殺される」その他ですよね。それらのどれを選択するのもビッグバン以来の決定事項。そう考えて抵抗せずに殺されるのも自由ですが、いみじくもここで「自由」という言葉が出現しています。選択は必然的決定事項と考えることもできますが、まったく真逆に決定事項と考えて成り行きに身を任せるのも一つの選択とも考えられます。決定事項と思ったことが自由選択とも捉えられ、自由選択と思ったことが決定事項とも捉えられます。
要するにね。どっちも人間の脳が考えていることに過ぎないじゃないですか。
暴漢が襲ってきた。殺されるのも怪我するのもいやだ。いやだから逃げるか、自信があるなら反撃する。そういう反応が素朴に自然で普通でしょ?
それは素朴に「自由意志」だと私は思います。